灼熱の木曜日/日々、徒然。

日々、思うことを書き綴っています。

ヒールを履く人生

一人で食事をする時の「いただきます」

信念とは、そういうもの。

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ヒールを、履きたい。

 

よくよく考えてみれば、私は18歳頃からずーっとハイヒール、それも割とピンヒールの多い人生だ。ハイヒールなのに颯爽と?走れる、そういう女性に憧れてきた。

ハイヒールを履くと、走る状況に自分を追い込まないゆとりある時間の過ごし方をする、という前提が抜け落ちていることにはこの際目を瞑る。

 

もっとよくよく考えてみれば、子どもの、小学校低学年の頃。母の実家は事業をやっていて、背の低い叔母が「つっかけ」代わりにヒールの高いミュールを勝手口に幾つか置いていた。

子供心ながら、それに強く憧れていて、さも「ちょっと靴をわざわざ履くのが面倒だからおばちゃんのつっかけを借りたよ?」というテイで、何度も履いていた。私は割とませた子だったので、お化粧やヒール、そういう、the・大人の女のオシャレ、的なカッコが好きだった。

 

おかげで18歳、大学からヒールを解禁し、余程でないとスニーカーを履くこともなくなり、なんならスニーカーを履かないから家に靴下も無くなり…(ストッキングとタイツで充分だった)ちょっと靴下に苦手意識すら芽生えてしまった。

 

で。

そんな、キャンプとか、運動します!みたいな日じゃないとスニーカーを履かない私が。人生初の Live、SMAPの野外でのものにすらヒールのサンダルで行って友達にネタにされた私が。

妊娠を機に、一気にヒールが履けなくなる。

それは、トーゼン。

 

…ここまで長く、20年弱ヒールで一貫してしまうとね、何がどうって、ヒールの高さ分、足が長くなってると勘違いしたまま生きてる。つまり、スニーカーを履くと、途端になんか足が足りない。長さが、トータルバランスがおかしい。ヒールに合う服しか、持っていない。

そもそも、そもそもが、カジュアルが似合わない。似合おうとしてこなかったから。

 

まぁ、仕方がない。

背に腹はかえられぬ。という感じで似合わないながらも、スニーカーを選ぶ基準すらよくわからないまま、ぺた靴で過ごし、出産し、育児…ヒール、履けない。そもそも抱っこでヒール、怖いとかもあるけれど、筋力が、落ちている。

 

持論だけれど、ヒール履いてる時とスニーカー履いている時、完全に筋肉の使い方が違う。

ヒールだと、ふくらはぎの辺り、ちょっと引き締まるとか、体全体、姿勢を正してないと腰や足を悪くする。きちんと、ヒールの重心に体重を乗せて歩かないと、すぐに疲れる。疲れなくなっていた私は、多分それが出来ていた、はず。

だけれども、スニーカーは違う。

あまりにもスニーカー履かなさ過ぎて、最初は靴下履いてもスニーカーで靴擦れしていた。こんな人他にいるのだろうか…。何人もの友人に「いや、スニーカーで靴擦れって(笑)」とツッコまれた。

むしろスニーカーの方が疲れる体質?ともいえる。

 

育児でヒールをほぼ履かず、けれどワーママ、育休後に復帰してからは、会社にヒールを置いて社内でヒールを履いていた。

長い間履いていない&産後って、バランスの取り方が難しくて、足、震えるんですよ。

ま、それはさておき、ヒールを履く生活に、戻れていたはずなのに。

 

なんと、去年、念願の電動自転車を購入。

 

急な坂の上に家がある私は、妊婦中かなり帰宅が大変だった、苦痛だった、ベビーカーもエアタイヤを選び、最初は怖々、ハンドルを離すと我が子死ぬ…と必死で握りしめていた。

その坂を自転車でのぼらないといけない。電動自転車と自分と子どもの総重量は、かなり、重い。坂道途中で止まろうものなら、押しては進めない。

 

そんな坂なら、もちろん、スニーカーじゃないと危なくて仕方がない、というかスニーカー以外で自転車に乗るチャレンジは怖くてまだしていない。

 

…私の…ヒール生活…

更に、コロナ禍突入で、会社に突如行けなくなった。→会社の置き靴は、そのまま数ヶ月放置されていましたwww

 

…ヒールの、出番が、ない。

毎年毎年春夏/秋冬で各一足以上ずつは購入していたはず、、、なのに。履く機会が激減しても、出産翌年には買い出していたのに、

これだけ靴好きの私ですら、こんなに買わなくなるという、コロナ、恐るべし…(今更)

 

もう最近靴の流行もよくわからなくなってきてるよ…在宅ワーク続きでヒールが似合わない脚になってきたよ…(←太ったw)

 

一刻も早くヒールを履く人生に戻したいものだ。絶対戻す〜と固く心に誓いなおした。

ノロ、ルブタン、ジミーチュウ、待ってろ、待ってろよ…

 

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私に何ができる?

先日こういうのを投稿した。

https://meotonooto.hatenablog.com/entry/2021/03/13/%E3%80%8C%E3%83%8A%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%89%E3%80%8D%E8%AA%95%E7%94%9F%E3%80%82

 

友人は無事に出産した。なかなか、大変な出産。

ホントに手伝ってくれる同性がいないので産科退院後、助産院へ直行。1週間経って自宅に帰宅。

やっぱりパパはまとまった育休は難しいらしい。それはなんとなくよく分かる。幾つかの企業を転職して見てきたけども、男性がまとめて育休とっているところ、とりやすいところはまだまだ、無い。行政は企業に、強制育休取得をさせるべきでしょう。せめて産前産後といわれる、産後の期間だけでも。

 

…こんなところで声をあげても何の効果もないんだけれど。

仕事をちゃんとしてきた女の人の方が、出産と育児は戸惑う気がする。こうしたらこうなる、という当たり前が全く通用しない。相手は言語が通じない生物(笑)

そして、無限に達成感がなく、次から次に「やること」が襲ってくる。

 

うん、慣れればね、出来るんですよ。一人でも。あと、これはこのくらい大変だ、とか、これは理不尽な無理ゲーなんだと初めからわかっていたら。

覚悟が変わるから、まー今だけだし、みたいな感じでなんとか乗り切れたりする。子供は成長するし。

周りに頼れる人がいない女の人が、産んで、夫で父の人が仕事から離れられない、早い帰宅も難しい、となると。(それ自体は一概には責められない。世の中には様々な職種も環境もある)

多分私その状態で20代なら、まず無理だわ。

めちゃくちゃ子供好きでも、数ヶ月後に新聞に、てのは古いな。Yahoo!トップニュースに載ってるかもしれない。

 

こんなに子どもが好きで、あまりオットに不満もなく、料理も苦じゃなく食べるのも好き、な私が、それでも年齢が若かったら無理だったかもと思える。若過ぎても、若くなさ過ぎても、子育てって難しい。

人間は人を頼る育児にシフトしてきたらしい。文化人類学的に。夫婦だけで完結するようには出来ていない。なのに現代は頼りにくい。社会がギスギスしている気がする。

 

お手伝いしにいくだけで、側から見てる人というスタンスだけど新米ママたちが苦しむのを黙って見ていたくない、けれど何が出来る?

とりあえずはただ只管、友人ママのナニーメイドをしにいくのみ、だ。

 

私に、何ができる?

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男の子の親はとても気をつけなければならない

どんな相手からでも、学ぶ得ることはある。

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生まれた子供が男の子だった、女の子だった、その時点では、母親の感覚は似たようなものだと思う。

けれど半年、一年、と育てていくうちに母親側の感覚は、随分と意識が変わっていく。表面的には気づけない。

同じ、「守るべきもの」であるはずの子供。

 

途中で、男の子の親は「加害する可能性」、について親が考えて導かなければならない。

途中で、女の子の親は「被害を受ける可能性」について親が考え、更に「守るべきもの」としての意識は強くなる。

 

え、女の子に叩かれてウチの子顔に傷ついたけど、とか思う人はいると思う。

一体なんの話をしようとしているかというと、「性暴力」について。但し、幼児くらいの年齢での。

 

ついこの前まで男の子であれ女の子であれオムツ替えは男女どちらの先生たちもするし、今に至ってはトイレだってトイトレ直後でオーブンな感じで行く。

子供たちの中で性別が無頓着に扱われる時間。

だけど「母親」はとても気をつけなければならない、と思う。

 

母親同士、似たような感じで子育てしてきているという錯覚に陥ってしまいそうだけど、各家庭で違うのは勿論、性別でも割と異なるし、そもそも自分たちだって兄弟姉妹一人っ子、それぞれ環境が違う中で育ってきている。

 

これは「私」の場合だから、母親は〜とか一概には言えないのだけど、という前提で聞いて欲しいのだけれど、産んで2年目くらいで気がついた。

何故だか女の子の親の方が配慮が細かく行き届き、控えめ?だ。男の子の親の方がざっくばらんな感じで付き合える。

うーん、上手く伝わらない。

自分の子供が男の子だから、というのも大いにあるけど、女の子の親とは「いついつ何処で何時から遊びましょうね」と約束して遊ぶ感じ。男の子の親は「今から空いてるんだけど遊ぶ?」で遊べる。女の子の親が声をかけてくれる事が少ない。複数人でも、集まろっか、と言い出すのは割と男の子のママだ。

たまたま私の周りだけ?でも、保育園のママ友

、職場のママ友、地元のママ友でもそうだ。

コレが私の第一子が女の子だったら、全然違う世界が、広がってそうな気がするのだ。

 

同じようなハラハラ感で育ててきたつもりだったけど何かが違う、産んだ相手が同性/異性だから?自己投影?小さな恋人?何が違う???と色々思っていたけれど。

もう少しお姉ちゃんの子供がいる友達が、昔言っていた言葉が頭を過ぎる。

「もっと大きくなって襲われたりしたらと思うと気が抜けない、自分で身を守る術を、知識を早くつけさせないと」と。

 

勿論暴力的な面では性別関係無しに心配はあるのだけど、確かに性的な意味で言うとその心配は割と確率的には低い、というか殆ど意識していない。

まぁ、それが一般的ではないだろうか。

 

ある事件を耳にした。

4歳で、男の子Aが女の子Bのパンツの中に手を入れた。単にふざけてお尻を触った。それを見て男の子Cが女の子Bに同じ事をした。

保育園の先生は、Cの事しか気づかず、Cの親に注意を促す報告をした。Bの親は「自分の子供に起きたという事を知らせないで欲しい」と先生に言っていた。

 

男児Cの親は、なんで家でもそんなおふざけはしていないのに突然そんな事をしたのか、ショックなのと不思議に思って聞いたら先にAがしていた事を知る、が、Aの親にその事実は伝わっていない、しかも、Bの親にも謝れない。

 

女児Bの親は、4歳にしてそんな事をされて娘の傷にならないように、その話を無かったこととして処理して欲しいという願いだろうと思う。

でも謝罪すら出来ないCの親の気持ちには気づけない。まぁ、謝ってもらっても何も変わらないからそれもそうなんだけど、更に「娘を守らないと」という意識はきっと強くなる。周りに対して「頑な」になっていくんじゃないかな、と、心配。

 

コレ、多分性別が何処か違ったりすると。

○○くんが△△くんのお尻、パンツの中に手を入れて触ったんだってー!だったら、「アンタ何やってんの…」で、多分終わる。

女の子が男の子にそうしたとしても、なんじゃそりゃ、くらいの感覚だろう。

きっと今回のこと、当人同士はなにも気にしておらず、そもそも多分あまり性別すら、意識してない。親だけにしこりが残りそうな予感…

 

難しいよね。

で、男の子ママと話していて気がついた。

そういうところにきちんと気をつけて育てないと、ウチの子、加害側にまわってしまう!という不安の種。女の子親は誰しもきっとガードを固くしなきゃならない。大きな事に発展しないように。

 

そりゃ感覚も異なってくるハズだ、なんで男の子ママとやたら気さくに話せるんだろと思うハズだわ…私自身は妹がいる二人姉妹で、「異性の子供を産む」てホント、異世界に迷い込んだくらいの感覚だったから、男の子ママに焦点当ててみると「気さくでとっつきやすい」ひとが多いなんて、全然気が付かなかった。産んだ後で変わる、んだよなぁ、コレ。

元々仲良くしてた友達同士ですら、距離感が変わる不思議。

 

ということで、育て方、日常での会話、めちゃくちゃ気にしないとなー、と思い直した日でした。

ちなみに。

お気づきかもしれませんが、そういう話、「言っちゃダメ」と言われたのに話してる保育園の先生が、一番ダメです。事実はともかく、相手の女の子の名前、伏せなさいよー!!!と思ったのでした。

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替えが効かないモノ

 努力が水の泡になる、ことは決してない。

人間は、過去の経験からの記憶をそんなに容易く忘れることはできないのだから。

 

「努力が水の泡になる」

この言葉は、努力の結果築いた今の地位を、他人に脅かされないようにと、つまり、他人に努力をさせないようにと作られた悪意ある言葉だと考えるべきだ。

 

だから、安心して努力すればいい。

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私は小学生の頃から「親友」という言葉が好きだった。

ふと配信されている記事が流れてきた。”日本の若者が深い友人関係を築けなくなった「決定的理由」”というもの。

これを読んで、良くも悪くも私は時代の潮流に無意識に乗ってきたのか、と感じた。

私が親友という言葉が好きだった理由すら、こういう歴史的背景からそう遠くない理由でこう思う子供が増えることも「読み込み済み」ということだ。

幸運にも私は、欲望に対して意思が強い子供で、齢40過ぎにして「親友」という存在を持てている。親友、は難しい。こちらと相手方との気持ちの分量×質量が同等で、しかも、継続させなければならない。バランスが大事だ。バランス。中庸。好きな言葉。

 

友情を築く、というのはある意味仏教の考えに似ているのかもしれない。

人間は何事においても、度を超すと不快に感じるように設定されている。

暑すぎても寒すぎてもだめ、喉は乾くけれど、水に溺れるほどの量は要らない。

汚い水では生きていけないのに、真水(精製水)を飲むとお腹を壊すらしいなんて、誰が決めたのだろう。

空腹過ぎても、満腹すぎても苦しい。動き過ぎても、動かな過ぎても疲れる。

 

友情も、近づきすぎても、遠すぎてもだめ、褒めすぎても叱咤しすぎてもだめ。丁度よい匙加減で同じ時を過ごし、相手もこちらも快適だと思える関係を継続して、初めて「友情」が成立する。

 

恋愛でも近いことは言えるけれど、恋愛は別れて別の人と出会い、幸せを掴むことは割と可能だ。(と、独身時代になかなか恋愛がうまくいかなかった私が言うのもちょっとどうかと思うけれどそれは置いておいて。)

友情は、替えが利かない。その人と自分との関係性は唯一無二で、他に求めたところで、元の同じそれではない。

恋愛もそうだよ!と言われそうなのだけど、基本的に恋愛は一度期に、一つしかできない。

替えを利かそうとする。しかない、とも言う。(言うかな・・・)時系列的には縦広がり。

 

友情は横広がり。複数持てる。複数持てるのに、今もあなたを選んでいるなんて、すごくないですか。そう、私は、あなたを親友とすることを自分で選択しているのです。

これって、奇跡的かと。

 

私には親友が4人いる。親友4人とソウルメイトが、1人。

それぞれ性格が全然違うし、私との関係性も、色や形が違う。10代の頃は「その人の一番じゃないと嫌だ」と強く思ったこともあったけれど、自分にだって甲乙つけられない、誰ひとり欠けてはならない、欠けると今のワタシが存在できない、そういう5人がいる。

 

そのうち2人、いや、3人は、一年を通して、殆ど会話したり連絡をとったりしない。

けれど、その5人とも、全員が私のことをかけがえのない友人だと思っていることを確信できている。

 

…なんてシアワセなことなのだろう。

ソウルメイトに至っては、この先死ぬまでもしも会わなかったとしても、それでも大切だと思えるし、きっと向こうもそうだろう。もらった言葉だけで私は強く生きていける。そういう関係性。

 

こうやって、自分が存在していてもいい、と思ってくれている存在があると、どんどん人はゆるく、気が楽に生きていけるのだと思う。

 

小学校新一年生に伝えたい。友達100人なんて必要ない。

かけがえのない、代わりの利かないたった一人の友を見つけられることを祈りたい。

 

お題「ささやかな幸せ」

お題「わたしの宝物」

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 突然本人写真を載せてみる。※顔はモザイク処理。

 文中の記事で紹介している本はコチラ↓です。興味津々。

 

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好きと嫌いについての考察?

 冒頭でネガティブなワードを入れるというのは、なかなか自分でハードルをあげているという事なのでは?例えば、こんなふうに。

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つまらない話しかしない人とのランチタイムを毎日のように過ごさなければならない事。それが私の人生にはものすごく無駄な時間で、仕事を辞めたくなる理由にすら、なり得る。

 

私は多分、かなり面倒くさい人間だ。

群れるのは好きじゃないし、かといって集団の中にいて一人なのはとても居心地が悪い。

誰かがそれは、「個人主義」なのだ、と言っていたけれど、そうなのか。

 

群れるのは好きじゃないと言いつつ、「ヒト科ヒト」にとても関心があり、関心を引きたいと思っている自分もいる。

ある集団の中での、自分の居心地のいいポジションを常に探している。ということは、潜在意識的には「そこに居たい」のでは無いか、と自分に問うてみたり。

 

意に沿わないヒトと共に時間を過ごすのが苦痛なだけだ。ただ、自分でも意に沿うヒトと沿わないヒトをどこで線引きしているのかは把握していない。

私はどこで「この人そんなに好きじゃないタイプ」と、線引きしているのか。

異性ならまだわかる。本能として、父親と似た性質の人に恋愛感情を抱かないように、生命の存続の為にそういう機能が備わっているらしい。だから好きにはならないタイプ、はある意味納得できる。

 

では、同性は?

大昔は一夫多妻制だった、とか考えると異なるタイプというのは恋敵になり得るし、(=自分が子孫を残せない)逆に似たタイプならどちらかしか選ばれない…どっちもダメじゃん。

もしかして、女は女同士、仲良くなれない生き物なのでは…いや、まさか、そんな。

 

小さな頃から仲良くしていて、今でも仲良くしている女友達たち。

この中に、私と恋愛対象がカブる人がいるかと聞かれると、多分、確かに、いないかもしれない。好みがカブると、何かとモメたりするし、それを本能で察知して初っ端からハナについたりして、仲良くなれなかったり、とか、ある?

もしや。

 

若い時から、仲良くなれない苦手な女の人はそれなりに沢山いて、その殆どが、「異性に媚を売る」ように見えるタイプで、総じて女同士で話している時に「話がつまらない」のだ。

だからと言って、私が異性に媚を絶対売っていないかと聞かれると、それはそれで、自信はない。多分自分好みのイケメンだと、ほんの少しプラスで優しくしてしまったりしてると思う。そりゃー誰だって好みの人には好かれたい。

それは私が既婚者とか、ママとか、そういう事はきっと関係ないのだ。

でも、私がニガテとするタイプの女性、胸元を意識させる服装をする。人の携帯をパッと取り写真を覗いたり。香水が異常に強い。嫉妬で機嫌がかなり変わる。マウント取ろうとしてくる。一見親身で、表面的だから深みがない。テンションが高め。

 

…と細かく書いていると特定のたった一人しか居ないのでは、みたいに感じるかもだけど、コレを書きながら私、過去にすれ違った7人程の女性をサラリと思い浮かべる事ができてしまっている。ちょっと、多い気が。

 

何故か浮かんだ彼女たち、初対面の時から私の脳裏に警戒信号が発令されている。けれど、職場だったりそういう自分では変えられないポジションに置かれた時にものすごく近くにいる。

呪われてたのかしら(笑)

 

「そういうタイプ」なので、実は今はほぼ周りに居ない。なんせ、私はママで、出会うのは保育園のママたちや先生で、職場でも私を恋愛などでライバル視しないといけない理由がない。

一瞬チラリと「自分がオワコンだからでは?」と浮かんだけれど、そこはまぁ、肯定も否定も今回は置いておく事にする(苦笑い)

 

もう一つの方の、苦手な女の人の特徴、「話がつまらない」というもの。コレについても、じゃあ私自身は話が面白いのかと聞かれると、全然全くそんなことはなく、むしろ面白い話を求められる関西が苦痛で東京に逃げてきた、みたいなのもちょっとだけある。

 

関東はラクだ。オチは求められない。でもオチつけてしまうけど。妙な内輪感や、排他的な感じがしない。

「東京は田舎者の集まり」というけれど、その事は素晴らしくて、自分自身を「他者」だと思っているからこそ「排他的」にならない。とてもいい特徴だと思う。

 

あぁ、そうだ。

今頃気がついたけれど、さっきの苦手な女の人タイプ、全員が全員、地元で出会った人だ。

地域が変わればそれなりにかなりいろんなタイプの人と、出会える。

 

世の中は割と広い。

小さな範囲で線引きしてこだわってる場合ではない。

線引きするなら、自分と他者、それだけでいいじゃないの。

 

お題「気分転換」

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器の世界。

器の世界、という沼にハマりそう。というか、既に片足突っ込んで抜けない。

元々そんなに自分にセンスがある方だとは思っていない私は、一人暮らしを始める時にも、とりあえずぜーんぶ白いお皿にすればカフェ風になるし、みたいな短絡的思考でフランフランとかで購入していた。私の中のフランフラン全盛期。20年ほど前の神戸っ子にはフランフランはサイコーにオシャレに見えた。

いや、今もオシャレではあるけど。あーゆーポップなイメージに自分がそぐわなくなってきた。ちょっと落ち着いた、ともいう。

 

最近、料理する時に美味しいかどうか、酒が飲めるかどうか、にプラスして、「映えるかどうか」みたいな目線でも見るようになってしまい、そうなると自然に、う、器が、、、気になるんです…みたいな状態に。

 

といっても、独身時代二人とも一人暮らしをしていたのと、私はといえば友達を部屋に呼びたくて一人暮らししたみたいなとこもあったので、割と食器が多かった。

夫から「多過ぎるので買い足し禁止!」と言い渡されていて数年買えなかったのだけど(笑)、最近またママ友とかを呼ぶようになり、食器棚も買ったし、、、という事でコッソリお皿を増やしつつあるw

 

可愛い器を買うとテンションがあがる。料理作るのも人を招くのもお酒飲むのも楽しくなる。更に、可愛い器には可愛い器を招き寄せる力があるようで、友達が誕生日にプレゼントしてくれたりして、更に窯元とか調べ始めて器のオンライン陶器市みたいなもの見始めたら止まらない。楽しい…

 

もうダメだ。

沼だ、沼から抜けられる気がしないw

 

和食器なんて必要nothingと思っていたのに、北欧風には目もくれず、ひたすら和食器を検索している。美濃焼益子焼、萬古焼、有田焼、備前焼波佐見焼…器の世界、こんなに広かったのかと驚愕している。

 

まだまだ知識は赤子並みで、どれがどうとかよくわかってないのだけど、どうやら美濃焼波佐見焼益子焼が好みらしい。コレいい!と思ったらその3つな事がよくある。

 

今はポトフやらお素麺をいれられる、深みのある器を探しているのだけど、オススメありませんか、とか聞いちゃうw

こうやって深みにハマっていくんだよ…フフフ。

 

器の世界、ちょっと沼ってみると知らなかったモノに出会えて楽しいデス。オススメ。

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今目の前にある食べ物の成り立ちとか。

珈琲、パスタ、パン。これらを発明?した人はある意味ニュートンガリレオより偉いんじゃないかって。時々そう思う。

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気になるもの。

コーヒー豆を今の形で炒って煎じて飲むようになった経緯。

なんで炒って煎じたら飲めると思ったのか。最初に考えた人類、天才?

 

昔の時代のドラマ。

日本だと武家社会の時代に、空腹で農家に駆け込んだ人に出すもの。お漬物は常備としても、

おにぎりは無理がないか。白粥も。お粥って、その時代相当時間がかかるものなのでは。

 

外国のも不思議。

なんとなくイメージ、レ・ミゼラブルとかのあの時代。

空腹で教会に駆け込んだとして、だいたいパンとスープが出てくるじゃない?スープ、そんなに常に何か作ってあるもの???

いや、まぁ、ドラマの設定だからと言われればそうなんだけど、実際どうだったんだろう。

パンとか、パンの形になるまで、誰が小麦を食べられるものだと発見したのだろう。

 

イタリア人がパスタを食べるようになったのはいつ頃なんだろう。誰が一体、小麦からパスタが出来るなんて考えついたのか。

 

そういうのって、誰か調べてない?

夫に言うと、「既にそういうの、新書で10冊くらい出てそう〜」と言われた。

 

ずーっと以前からそういうもの、不思議だなぁ、と思っているのだけど、そういうのって、最近気がついたけれど、多分文化人類学とかそういう方面の学問?なのかな。

どうやら私はそういうことに感心があるらしい。(そんなことには気が付かず、私が行った大学での学部は法学部でしたが・・・そして日本の法律と私の頭は相性がよくない、と気づいて挫折したwww)

 

学びたいものって、誰か既に知見のある人が、「それならこっちの方向だよ」と指標を示してくれないと意外と気づけないものかもしれないなー、なんて。

実は自分が何に向いているのか、とかそういうことも、全て見知ってから、自ずと見えてくるものかもしれない。

 

需要があるなら、コーヒーの歴史とパスタの歴史、パンの歴史。そういうものを調べて新書でも書いてみようかしら(笑)

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