灼熱の木曜日/日々、徒然。

日々、思うことを書き綴っています。

デカルトとはきっと恋愛できない。

「世界中の人が協力して、何かを成し遂げたことがありますか?」

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デカルトは「全ての物事をまず疑え、否定しろ」という思想らしい。

まぁ、自分の考えを持ってみる為に必要な考え方への道筋、なのかもしれないけど、そして疑わない事は自分を思考停止させる、愚かになる、知識を知恵を発展させない、というような意味合いでは正しいのかもしれない。

 

但し、私が思う、「恋愛観」はちょっと違っていて。よく、相手を信じろ、信じ抜け、それが愛だという言葉を聞くけど、そもそも「信じよう」と自分の中で決めること自体、ちょっとズレていないか。

相手を信じようとする気持ち以前に、相手を「疑わない」が必要だと思う。

信じようとしなければならない相手、ではなく

端から疑う必要性のない相手、を選べばいい。

というか、そういう相手じゃないと、もし仮に好きになってしまうと、自分が搾取される。擦り減っていく。

 

友人で、「ボクは彼女を信じようと決めた」と私に言った人が居て、あぁ、もうこの人は、その時点で辛く苦しい愛情の在り方を選んでしまったんだな、と感じた。

その言葉を第三者に吐く時点で、きっと彼女を信じてはいない。信じているということにならない。疑ってしまう自分を、押し殺しているだけだ。

きっと、「信じよう、と決める」恋愛は、長くは続かない。全ての物事を疑ってかかれ、というデカルトと、私は恋愛はできない。いや、全ての物事を疑う人、という人を俯瞰するとかえって恋愛の「こちらが好きになる」という事は出来るのか。

 

但しそれは、修羅の道。

 

だよね、と思いつつ。

いろんな愛の形があっていい。それを選んだら、選んだ時の自分を否定しないためにもその愛を貫き通せ、とは思わない。きっと数年前の私ならそう思っていた。

なぜかというと、選んだ時の自分、から今に至るまでに、それなりに何かしら成長とか知見が増えるとか、人間だからあるわけで。その過去の自分を否定しないように、今の自分を押し殺すのは、無意味な気がする。その時点、その時点で、最良と思える選択をしているはずだ、今この時も。

若い頃の恋愛と、色々熟した後の恋愛、視点が違って当然だ。

私は過去に好きになったり付き合ったりしてきた人たち、全員に幸せでいてほしい。

恋愛一直線、な私なので、実は自分から去った人は一人しかいないと言っていいんじゃないかと思うのだけど、それも、その人も幸せでいてほしい。

 

例えば別れたりすることはとても、勇気が、エネルギーが、要る。けれどそれまでのその人との時間が無駄だったんじゃないかと躊躇うことは必要ない。サンクコストに捉われてはならない。

そこで勉強して次に足を踏み出せばいい。二人して不幸になるより、その方が幸せな人が増えると思う。癒される方を、楽になれる方を選んでいい。

 

物事は常に、選択の連続。自分が楽に生きられるように、最善の選択を採り続ける気概が必要だ。いろんな物事を疑ってみる、常識を疑ってみる、は必要かもしれない。けれどこの人を愛そうと思ったら、その人だけは疑わない。不平不満は、ぶつけてもいい。そして。そういう自分を保っていても、相手が変化することは有り得る。だから、そういう疑わない自分を保ったまま、相手がもしも変わってしまったならば。それは違う選択肢を採ることも考慮していい、と思う。

 

自分にとって最良の選択肢を常に。

 

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文頭の答えは、「天然痘の根絶」です(^^)

お題「わたしの癒やし」

こういう話をすること自体、私にとっては癒しになっているんだけど、このお題は違うのかなー。どうなんだろう。ということで、リラックスしてるっぽいライオンをあげておくw

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