灼熱の木曜日/日々、徒然。

日々、思うことを書き綴っています。

ささやか、そうでもない、割とちゃんとした幸せ。

お題「ささやかな幸せ」

今自分が幸せか否か。

そう自分自身に問わなくなった時にそこにあるものだと、思う。幸せって。

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初めての試み。「テーマに沿って書く」ということ。

これ、実は私にはなかなか難題。小学生の作文みたいになりそうで。

 

ささやかな、幸せ。

そのうち子供を産むことがあれば、断然一人目は男の子がいいなぁ、と割と強く思っていた。

お見合い結婚は嫌で、絶対恋愛結婚がしたいと思っていた。10代、20代、とか。

多分自分の両親がお見合いで、合ってるんだか合ってないんだか、それでもお見合いだから第三者の顔を立てて、離婚には至らないという妙な義務感があって。別に離婚しそうとかそういうことではなく、ただそういう暗黙の了解とか、他人の敷いたレールに乗っかって外れないという意思表示。そういうものが見えてたと思う。

私はどちらかというと、恋愛至上主義!みたいな生き方をしてきてて、それは恋愛をたくさんするとかそういう系ではなく、好きな人ができたら、もうその人を一途に想うこと、尊重すること、が自分の恋愛の仕方なのだと思っていた。割と片想いが長い人ですwww

そういう思考の持ち主のワタシは、恋愛結婚=一番好きな人と結婚するのだから、その人にそっくりな男の子が欲しいに決まってる、みたいな感覚で。

お見合いだったらまぁ、どっちが先でもいいけど女の子で自分がやりたかったけど出来なかったこととか、自分を踏襲させる存在としてお金かけて育てよう〜みたいな愚かな考えで。

 

そう、母親と娘というのは、産んだ相手が同性である、ということで自分を重ねてしまいがちなんだそうで。それで苦しんでる親子はよくみる。どちらかだけが苦しんでる場合も。

ものすごくそこに気をつけていないと、踏みがちな地雷がおそらく山ほどあるんだろうなと思っている。自分が女の性で、そんなに生きやすかったとは思っていない私は、女の子だから苦労するんだろうな、みたいなレッテルを、すでに今の想像の段階から貼りがち。

 

そんなわけで、第一子が男の子だったから心から喜んだワケなのだけど、そもそも異なる性別。全てが真新しい感覚。(私は姉妹二人だったし)

生まれてから2年ほどはただただ存在が愛おしい存在、それでも充分に幸せなんだけど、いっぱい話せるようになってからは、保育園で教えているわけでもないらしいのに、自分から「ママほんとに大好き〜!」とかね、言ってくれるんですよ。割としょっちゅう、ご機嫌とりとかでもなく、自然に。

これがささやかな幸せでなくてなんだって言うのだw

男の子ママ、楽しいです♪

 

なんでだ、なんで、「友達に恋人の話をのろけてる風」になるんだ。なんでだ・・・

できれば将来彼女とかも作って欲しいし、子供を彼氏みたいに、とかは微塵も思ってないけど、異性の子供って、こんなにママ好きになるのか、とひしひし実感している。

あー幸せ(笑)

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いつも心にアンテナを

人は、大切な人を失わないように、と、自分を失うことがある。

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最近驚くことが多いのだけど、20代の人たちと職場で新たに出会うと、googleドライブを駆使し、ペーパーレスで、会議もオンライン、みたいな状況にコロナ禍の影響もあってそういうデジタルな物事にとても長けている。

 

一応、混ざって働いているのだけど、やっぱり私の周りの人の年齢はというと30〜45くらいの自分と同年代、それよりちょい下みたいな年齢が多くて、20代の人と出会う機会も少なめなのだけど、システム系のインフラが整っている状態の企業に就職する人が、当たり前に最新技術を駆使している一方、プライベートで付き合う同年代の人たちはそういうインフラ環境が当たり前ではなかったりして、ここで会話が断絶される/みたいな気分を最近よく味わっている。

当たり前に、経験職種によってそういう断絶は起こり得るのだけど、その、断絶された状態で、我が子のPTAなど、再結集させられて様々な人たちと同じ立場で渡り合わなければならない。

ほんの20年程昔でもみられた、携帯持っている人、持っていない人。

FAXを使用する人、使用しない人。

深夜の時間限定でネットサーフィンに勤しむ人と、ネット環境がない人。

どんどんパラダイムシフトしていって、つい最近だと、LINEを使っている人、使っていない人でも透明な壁があったような気がする。

どこのレベルが「スタンダード」かは分からないけれど、いつの時代にもどこかにスタンダードがあって、そこに乗り遅れると、どこかで自分で気づいてアップデートしないといつのまにか隣にいる人と異なる世界に生きているような感覚になる。

 

そして、それは誰にも教えてもらえないものだ。

積極的に自分からアンテナを張っていないと、気づきもしないで素通りされる。

 

これは割と恐怖なのではないか、と。時々。

常に最新の状態にいたいわけでは全然ないのに、いつの間にか時代に取り残される恐怖。

Windows 95からWindows10には、アップデートは出来ないのだ。間をいくつも飛ばしてしまうと自分は最先端までいっきにアップデートするのは至難の技。

 

20代の人たち。「若い人」と私の年代からは思いがちだけれど、時代の主流はすぐに彼らになる。意識も思考もアップデートしていく"クセ”をつけておかないと、と自分を戒める。

 

「今時ってこんな便利なことが誰でもできるのね」というのをどんどん自分に取り入れたい。

こんな便利な事=誰でも出来る当たり前のこと、になるのは、すぐそこ。

私なんて、情報処理の講義が大学で抽選だった時代。抽選に外れたから、大学では教わっていない。でも、卒業後10年はそれで通用したけれど、もう今はそんなことでは通用しない。

 

若い人たちの知識やスキルに驚いてばかりもいられない。

アンテナ、張らないと。

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今日は国際女性dayですね。ミモザはないので、アカシアの花を。

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分刻みな週末

眠たい時は寝たく無い時で

眠くない時は寝てもいい時

お腹が空くと、何か口に入れないと苦痛だし、

お腹が満腹になると、それ以上食べるのは苦痛である

中庸というのは、とかく難しい。

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週末はとにかく出ずっぱりで、疲れ過ぎた。

病院だの保育園の会合だの美容院だの食料調達だの。その間にくる、怒涛のメッセージたち。

 

レントゲンを撮ると、「通常人の首の骨はC字なのだけど、君のはS字ですね」と言われた。

片 肩凝り酷いでしょう、とは言われたけれど、日常生活こうすればいいよ、とか、こういう体操すればいいよ、とかは一切言われず。

 

そんなモノなのかな。

 

私は病院がニガテなのだけど、その理由として、病状を説明してもきちんと伝わらない、とか、病状が、結果よくなった試しがあまり無い、とか、あまり説明を書こうとせず途中で話を遮って診断する医師に当たる事が多い、とかがある。

 

医師って人の話遮る人、割合的に多くない?もしや。(ちなみに、私の説明が長い、というわけではないと思う)

会話をかぶせられるのはあまり居心地が良くない。

経験と、知識から、そこまで話さなくてもこうだ、と診断できるのかもしれないけど。

あと、患者が多くて時間がない?

 

やっぱり、こうして病院から足が遠退く。

きっとそんな理由で色々手遅れになったりするんだろうな、と思いながら。

 

こういう眠い時は、寝るに限る。

give give give give gift give takeくらいの割合

愛は「与える」ものとかいうけど、

罪人を「赦せ」とかいうけど、

与える、赦す、という言葉が既に上から目線で気に入らない。

私が、捻くれているのだろうか。

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タイトル通り、割と老若男女問わず、めちゃくちゃギブしてたまにテイクくらいの割合で丁度バランスが取れてると普段から思っている。

 

1ギブして1テイクする関係性ばかりだとすると、きっと私は1テイクを毎回待つ、ものすごく打算的な女に急降下する自信がある。(なんの自信なんだか)

 

そういう自分の中の決めた概念で生きてて、一つ疑問に思う事が。

 

「本」

 

本って、人類の一番初めの人が(大袈裟に書いてるけど)まず誰かに「読ませて」貰わないと、その本の価値は誰一人知りようがなくて、知りようがないものに普通は価値はつけられないはずで、価値がつかないものならその「本」を、対価を支払ってまで読もうとは、しないのではないかと。

 

本って、物体だけど、概念的でもある気がする。生まれてから何年か経って、誰かに本という存在を先にギブしてくれた人が必ずいて、そうでなければ本から知識を得ようとは、知恵を得ようとは考えつかないはずで。

 

そう考えると、本の値段というのはちょっと不思議な感じがしてくる。当たり前に書店に並ぶ本たちは、まだ中身を私自身は知らないのに誰かによってその本の価値の代名詞でもある「価格」が設定されている。

先に支払う、ことで後からその本の価値を、読んで後付けしていく。読んだ後でこの価格は不当だった、みたいな事もあったり。

 

全く知らない名前の作家の本を買って読んでみようと思うのはなかなか難しい。手に取らせるのは難しい。

blogや記事など先に無料でギブしていて、初めてそこに価値を見出す人がいるかもしれない。

 

とある文筆家が似た考えをもっていて、自分の作品は引用等未来永劫無料でご自由に、と言っているのを読んだ事がある。

その人はたくさんの読者がいるからこそ、更にその価値が読者から本人に帰依していくのだととても納得した。

書くことを生業としてしまえば、どうしても利益が必要だから、金額が設定されるのは仕方のない、当たり前のことなのだけど、物事の最初の方、というのはとても大事だ。

 

"情けは人の為ならず めぐりめぐって己がため"

 

古典落語で使われたこの言葉がとても好き。

ちょっと上で私が言いたいコトと共通している気がする。

 

give give give give gift give & take

 

 

多分そのくらいが、丁度いい。

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お題「気分転換」

仕事ができる人、の定義。

私尽くす女なの、という女性で「相手に求められている尽くし方」をしている人を見た事がない。

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仕事ができる人、というのは定義がとても難しいと思う。

最近になって私が思うのは、「相手にうまく伝わるように的確な指示を出せる人」というのは仕事ができる、という一つの指標になるのではないかと。

前の会社のボスは、とにかく指示をしない人であった。それだけならまだしも、自分の中にある結論を読み取って汲み取れという。そんな無茶な。部下はエスパーではない。

最終的に気づいたのはこの人は「理想的な結論」がさも自分は気づいているフリをしながら、相手に考えさせ、思ったように動かなければNOを突きつける、自分の中に結論がきっちりあるわけではない。ただそれだけの仕事とも呼べないことを仕事にしていたのだった。

※その後、ボスも私もねずみーらんどの買収煽りを受け、二人とも解雇された。

 

なんだったんだろう、「間違ってる方向にいってたらちゃんとそれは私が見て軌道修正するから。その為に私がいるのだから」とさも、いい上司が言いそうなセリフを聞いたあの無駄な時間は。軌道修正どころか、本人の方向性も間違っていたということ。

 

今の会社の前の上司は、最初はよくわからなかったが、結果としてただひたすら、「仕事やってる風」な人だった。上手く指示が出来ない。汲み取れない自分がダメなのでは、と思ったけれど、その他の人の話を聞くとそーゆーふわっとした指示だからそれ以上の仕事はしにくいだろう、と当然のように同情された。

 

今の部署の上司のおじさんは、割と細やかな指示をくれる、私が何か読み取り違いをしようものなら、自分の説明の仕方が悪かったですね、と言ってくれ、私がちょっと気を利かせて+αの作業をやっておきましたというと「機転をきかせてくれ、大変助かりました、感謝です!」などと絶大に褒めてくれる。けれどきっとこの人は、自分が仕事出来る人だ、みたいな自負は多分ない。全方位に低姿勢で、ただ、毅然とはしている。

 

私みたいなトウがたった妙齢の女だと、新しく何処かにいくときっと使いにくいだろうな〜と相手に同情すらするのだけど、何故か今の部署、おじさんも、若い美女も、とても感じが良い。そんなに私のことを重荷にも面倒くさい相手だとも仕事出来ない人だとも思われていないような気がする。こんなコロナ禍で異動してしまったからあまり普段から顔を見ないのだけど、割と居心地がいい気がする。その分、踏み込んで親しくもならない感じなのだけど。

 

前職で、多方面にわたって踏み込んで親しい人かたくさんいた、みたいな大学のサークルのような会社にいた私としてはほんの少し寂しさも感じるのだけど、通信インフラはぴかイチで、当たり前に在宅ワークが出来る、というのはなかなかに恵まれている、と思う。

 

人のことアレコレ言っているけど、私は実は持論の「仕事できる人」指標に自分を当てはめてみると実は「あまり人に上手く指示が出来ない人」だと思う。

人に頼み事するなら、説明の手間も面倒だからつい自分でやりがち←これもダメな上司。

指示する立場なら、事細かに教え過ぎて多分ちょっとくどくなる。。。

あまり教えるのは得意じゃないと思う。

 

若い頃に思い描いてたような「誰かの上司」になることは今後、なさそうな予感がしてるけど。

 

たまには自分を、振り返る。

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ちょっとYouTubeを取り上げられて、散々悪態をついた後、数分経って自分で落ち着いてから「ごめんね、さっきはママにいじわるって言って」と自分から謝ってくる4歳児。何事も彼のように素直にいきたいものだ。

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義務こそ物の苦痛なれ?

家事の中で料理だけ難易度高すぎる、ていう人のblogみて。

※人のブログってリンク貼っていい?の?いいよね?(ダメなら誰か教えて〜)

おぉーホントだ、夜ご飯一食数人分作るのって、そもそも献立考えるから料理始まってる!!食器洗って醤油やドレッシングしまう、テーブル拭くまでが料理…

 

いくつも星を勢いでつけつつ、我が身を振り返る。エライな、私…よくほぼ毎日毎日、ご飯作ってるな…なんなら料理に一筋の光明まで見出そうとして「楽しむエネルギー」にしてる…私もめっちゃ偉いやん(笑)

 

そう、私は自分が作った料理出して、食事の最中に子どもがイタズラとかして夫が怒ってるの図が、めっちゃくちゃ、イヤで。せっかく美味しいご飯(見えないところで努力して)作ってるんだから、せめて楽しく美味しそうに食べてくれ、てのが、当たり前の前提として、ある。もう、太陽が西に沈むのと同じくらい当たり前の前提として。

 

時々、というか割と頻繁に、怒られる事をわかってて実行する4歳児。でもそーゆーお年頃だと思ってるので注意はするけど怒りは湧かない。けれどそこに厳しく注意する夫の声が入ると…反発して声を荒げる子ども、声を荒げられて更に叱る夫、子ども、泣く、みたいな構図になってきて…

 

どんどん、私のイライラが募る。

もーせっかく美味しい、好物を作ってるのに、みたいな。普通に食べてくれるだけでいいのに。子どもは美味しければ食も進むから、特に褒めてくれなくたって、楽しく食べてくれるということは美味しいということ。

 

…と、いうわけで。

私は料理はコロナのおかげか、作る回数も増えてきてなんだか趣味みたいな領域になってきてるけれども、それでも、「つくらねばならぬ」状態の、義務と感じてしまうご飯づくりは多分、人一倍、苦手。避けたい。逃げたい。自分から何食べたいかなーとか考えて作るご飯づくりとは雲泥の差があり、同じ家事とはとても思えない。

 

むしろそう、そこに哲学が含まれてる気がする。してきた。なんとなく。

自主的にやる家事炊事と、義務感駆られてする家事炊事。そもそも、同じ名前でくくってしまうのがよくないのではないか。(何を言ってるのかわからなくなってきたけども、この思考の先に一筋の光がみえる・・・気がしない?)

 

私はアホほど鶏肉をリスペクトしているので、鶏肉のいい具合に焼けてきた感じとか見ている最中は「これは家事だ」とか意識してないわけですよ。ただ、今ある素材を最大限美味しく調理することに命…はかけてないけど、それだけが目的で、無心で肉焼いてる。だって鶏肉好きなんだもん。

 

好きこそ物の上手なれ、とあるけど、義務こそ物の苦痛なれ、みたいな逆張りver.の言葉があってもいいんではないか、なんて。

あ、ちょっと私いいこと思いついた。ってことで今日はここまで。

おつまみだらけの料理↓w

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春の嵐

書けないと思うときには、とりあえず書いてみることだ。

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今日は風がかなり、強い。

少し前に春一番とか聞いた気がするけれど、今日のこれはなかなか、すごい。

春の嵐だ。

 

洗濯物と植木鉢は早々に避難させた。これができるのが、在宅ワークのとってもいいところ。

今からこの強風の中、お迎えという大役が待っているが、本当なら雨予報だったのでそれがなくなっただけでヨシとせねば。

今日は朝の保育園までの送りと、晩ご飯まで夫が作ってくれるらしいので、楽勝だ。

ジェンダーギャップがどう、とか最近その界隈が賑やかだけど、誰しもその差別の枠組みを自分の中に抱いている気がする。というか、私たちの親世代はモロにそういう価値観で生まれ育ってたのだから、その元で育った私たちが完全に抜けきっているわけがない、というのが私の印象。できれば差はなくしてほしいしなくせればいいと思うけれど、今日の晩ご飯何にしよう、と考え「なければならない」のはやっぱり妻で母である自分の方だ。

そんなに苦にならない性質だからまだ、自分で自分が助かっているけれど。

これをやっぱり女だからかなーと言うと、あまり男女の違いはない、男脳女脳などない、と言い張る夫の意見は「ご飯作りたくなければ作らなければいいんじゃない?」とよく言う。それは「代わりに自分が作るから」ではなく、「たまには抜くのもいいしね」くらいのレベルでそう言われる。これ、私がひとり暮らしならそれでいい。けれど、自分の都合で子供のご飯を作らない(=飢えさせる)というのは微塵も考えつかないことで。

これでサラリと、「じゃ、今日私いらないから子供の分もよろしくね」と言って100%それで済むのならいいけど、「今日は仕事が」「今日はお腹空いてないからそもそも自分もいらないし」とか返ってくる可能性は低くない。以前書いたけれど、我が家はお互い、まず相手に期待をしない夫婦。(念のため、愛をもって、と注釈いれておく。冷たい関係なわけではない)

 

そうすると、やはり、期待しないようにする以上、子供の食事は私が自然と考える。そもそも夫はありとあらゆる「パスタ料理」しか作らない。栄養云々はパスタでも工夫を凝らしてとれるという持論らしいけれど、そんなにしょっちゅうパスタばっかり子供に食べさせるのもなぁ・・・みたいなのも私の「固定観念」の親心。

イタリア人、毎日どうしてるんだろ。素朴な疑問。イタリア人の友人はいないしな・・・

 

でもこの私の感覚も、専業主婦だった母の影響が多分、絶大なんだろうと思う。

「お母さん」という生き物は子供にご飯を与えるものだ、みたいなイメージが出来上がってしまっている。ジェンダーバイアスというか、生活習慣病みたいなものじゃないか。

だとしたら、慣れ親しんだ生活習慣を、一体何歳まで、変化させることができるんだろう。

別にIOCの会長とかの批判ではなく、70歳過ぎた人に今までの固定概念を変えろといっても土台無理な話しだ。ちょっと気の毒ですらある。

 

私の父方の祖父はそれはそれは厳格な人で、男が絶対、長男が絶対、みたいな人で、忍耐、勤勉大好き、みたいなその時代あるあるな人だったな…とか思い出しながら。今の時代は多分どんどんそういう古い価値観の人たちには生きにくい時代になっていくんだろうと思うけど、私が今いるポジションが、まだ「時代についていける」かどうか、自分を吟味しないといけない。こういう、パラダイムシフトが起きている真っ最中というのは、時代の先読みを失敗するとその後めちゃくちゃしんどくなる。…と、何故か確信に近い形で理解してる。

私の中のバイアスはどのくらいなんだろう。料理作るのが好き、とかもそう思わされているだけかもしれない。と思いつつ、息子に料理を教える。男女どちらもが当たり前に家事も育児も基本出来て、その上でお互い得意なことをやれば100%になる、という関係性が理想だ。

ま、誰かと将来一緒に暮らしたりするパートナーが、息子と同性でも同じことを思う。本人が楽しければそれでいい。

 

男は男らしく、女は女らしく、なんてバカげていてナンセンス、という時代が早くくればいいなぁ、と思いながら、それでも自分が好きだから、髪の毛を巻いたり、お化粧に勤しむ私でありました。

 

気圧がめちゃめちゃなのが、こういうことを考えさせるのかな、なーんて。

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