灼熱の木曜日/日々、徒然。

日々、思うことを書き綴っています。

期待しない、のススメ。

あぁ、また、私は小さな箱に入ろうとしているのかもしれない。

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固執。執着。とてもイヤな響きだ。

私はかつてとても「気にしぃ」だった。周りがどういう気持ちで自分に接しているか、微妙な表情や言葉を読み取り、裏を見て、吐きそうな重圧の中で物事全てを気にしてしまっていた。

気にしなければいいのに、という言葉。

何度耳にしたかわからない。私だって気にしたくなんかない。どうすれば気にせずにぼーっと生きてられるのか、誰かに私の集中を削いで欲しかった。

 

多分私は承認欲求が強かったのだ、と今なら思う。誰かに自分の思考、言葉、想いを「そのままでいい」とまるっと受け止めて欲しかったのだと思う。その対象は、友達だったり、先生だったり、恋人だったり、した。

 

多分気にしなくなったのは、一番大きくは出産だ。自分の人生が、そこで一気に主役が入れ替わる。入れ替わるけれど、数年経てばまた自分を主軸に戻さねばならない。これは、親にとってはとてもキツい事なのではないか。

「あなたのために自分の時間を使ったのに」という言葉は絶対子どもには投げてはいけない。そんな事、子どもは「知ったこっちゃない」くらいで良い。実際私が親にもし言われたらイヤだ。そんな事言われても…としか言いようがない。

私は出産だけは、親のエゴだと結婚前から一貫して思ってきたタイプなので、いつか息子に将来「産んでくれなんて頼んだ覚えはない!」みたいな反抗期あるあるのセリフを投げられたら全力で受け止める構えだ。

「当たり前だよ、私が産みたくて産んだんだから。悪かったねー意思確認せずに産んじゃって。」こんなイメージ。(逆ギレされそ…)

 

子どもが巣立ったらスカスカのぼろぼろになる人生にはしておきたくない。ということは、自分も充実させないといけない。これはそう簡単ではない。

いろんなことが気にならなくてなって、頭の形より思考が大きくアメーバ状に膨れて溢れていたものが、落ち着いた。

でもそうすると、ホルモンバランスか何か、育児脳か何かは知らない。多分わたしはそれまでの自分との確執から解放された。出産からの数年によって。夫の影響もあるかもしれない。

認められ、選んでくれて、それに加えて夫は人に対して「期待をしない」。最初聞いた時は冷たい人かと思ったけれど、お互いに期待をしなくて、自分のことは自分のこととして当たり前にやるつもりになっていれば、そして愛さえあれば、割といろんな物事がスムーズに進む。

 

期待をすると、叶わなかった時に失望する。

期待していないと、失望もしない。

 

この発見は割とスゴイことで。

「何かをやってくれなかった!」と怒る自分は、そもそも「やってくれると期待してしまっていた」ということなのだから。

期待は、しない。冷静に。

 

そうすると、物事への固執が、執着が、どんどん少なくなっていって…

 

とてもラクになった。

それと同時に、気にしなくなった私は、なんと、文章が書けなくなった。

多分ちょっと不幸な方が、書きたいことは溢れてくる。「今穏やかな気持ちです」というのは書いてて筆が進まない(笑)

きっと、読んでもそんなに面白くもない。

 

ちょっとリハビリしに、この言葉の世界に戻ってきたのです。そうね、月あたりから。

だから私のブログ、多分、支離滅裂。

でもいいの、リハビリだから。

不幸な自分に戻りたいわけではもちろんないけれど、文章が書ける自分には戻りたい。

 

でもこれ、ブログ書いていること自体…もしかして承認欲求…なのか…?(笑)

ちょっとだけ、見てくれてる人がいて、最初は誰も見なくても独り言だし、と思っていたけれど、やっぱり見てくれてる人がいるのは嬉しいものですね。

是非この世界での友だちになりましょう←ヲイ。

そうだ、しんどくなった時には、「相手に期待してしまってないか」を自分に問うことだ、な。