狂信者
過去への回帰
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今週のお題「下書き供養」
2010/4/26
とある人に、私が無意識にとある宗教に入信していることを指摘された。唐突に。
その宗教には、無意識に、そこのアナタも、横にいる恋人も、入信しているだろう。かなりの割合で。
世の中多くの人が、その教えを信じ込むように仕組まれている。
世界は大きな罠だ。
そのことを指摘されてから、頭では割とすぐに理解できたから、脱退を試みているのだが、きっと自然と培われたモノって、なかなかそう簡単には抜けないと思っている。
行動がついていくかは、努力次第。
麻薬中毒者さながら。
きっとそれをかいつまんで私の説明を聞いた親友が言ったように「吐きそう」になるのが正解なんだろうな。
そう言った彼女は、とても頭がいいと思う。
(私の説明がいいとも言うw)
そういうところは、ちょっとしたきっかけさえあれば割と客観視できるのだ、自分を。
でも、その日から世界の眺め方がだいぶ変わった。
全てがそこに結び付く。怖いなぁ、もう(笑)
その論理で、全て納得いってしまうんだから、恐ろしい話だ。
世界はそこに、囚われて身動きが取れない。
このこと、「blogに書くでしょw」って言われて数日。
書くでしょとか書いてとか言われると、あまのじゃくなので寝かせたくなる。。。w
で、その間に消化して、自分のものにしてしまうのだ。
ハイスピードで。
できるだけ、1mmもズレることなく。
まだ完了はしていないけど。
そもそもそんな簡単じゃないし。
今までの思考を一旦無に帰して、真っ白な状態で取り入れなければならないのだから。
…どっちが宗教じみているんだか。。。
その角度から物事を眺めると、ものすごく楽になった。
まだ絶対全部は理解していないけど。
同じモノ、例えば円錐を、
真横から見てる人には単なる長方形で、
真上から見てる人には円のカタチに見える。
それは同じモノであるはずなのに、
両者には全く別物に見えるのだ。
私には長方形に見えていた世界が、
とある人には円に見えている。
ただ、希望を言うなら、私はそれが円錐であることまで、きっちり知りたい。
物事の裏もオモテも、横もナナメも。
脳が何かに囚われて自分の軸で実は考えられてなかった、なんて後から知るのは真っ平ごめんなので、アンチ宗教な私は(…というより根拠のない何かをひたすら信じるだけで物事が解決するかも、ていう甘えた考えが他力本願であまり好きではないのかも)必死で脱退する道を模索する。
それも、真似するのではなく、自分の独自の哲学を。
親友に。
「これだけイロイロ文章化できるっていうことは、自分のことをわかりすぎる程わかっていて、たまに蓋するくらいなんじゃない?きっと。」
って、言われた。けど、そうなの?(笑)
私の中では、自分で自分はこれくらいわかっていて、また、これくらいわかっていないということをわかっていることも、他の人もそんなモノだと思ってるんだけど。
各々がどのくらい自分のことを自分で理解しているかって、測れるモノサシがあったらいいのにね?
で、自分をわかっているハズなのに、一体何の宗教に入信していたの?って?
それは簡単には言葉にできないのです。
お恥ずかしい限りです。
だから、おいおい、そのうち、私から感じ取って?(笑)
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でもって、そののち11年を経た私には何教に入信していたのか、サッパリわからないのです。
…ていうオチ、要る?w
まぁでも多分おそらく絶対。「人の愛し方はこうだ」という常識を覆されたんだと思う。
こういう風に人を愛して、恋愛して、例えば陳腐なことで言うと、付き合ってと告白してから手を繋いだりキスをして、とか、結婚してから子供を産んで、とか、そういう順番なんていうものは、ホンの2、300年ほどの間に「日本人」の中で作られたモノが多いということで。多分それを常識的とかそういう感覚で取り扱っていることの愚かさを目の当たりした、という感じかと。
愛する人の魂が感じられているなら、それでいい。
その人と会ったり話したり、接したり。そういうことは本当に大事なことではないのだとそのくらいの時期から知ったから。究極の話をすれば、相手の魂を感じられてさえすれば、相手の生死はもはや必要な情報ではない、くらいの、究極の、愛。
そういうものが存在しても構わない。いろんな愛のカタチが、あっていいから。