替えが効かないモノ
努力が水の泡になる、ことは決してない。
人間は、過去の経験からの記憶をそんなに容易く忘れることはできないのだから。
「努力が水の泡になる」
この言葉は、努力の結果築いた今の地位を、他人に脅かされないようにと、つまり、他人に努力をさせないようにと作られた悪意ある言葉だと考えるべきだ。
だから、安心して努力すればいい。
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私は小学生の頃から「親友」という言葉が好きだった。
ふと配信されている記事が流れてきた。”日本の若者が深い友人関係を築けなくなった「決定的理由」”というもの。
これを読んで、良くも悪くも私は時代の潮流に無意識に乗ってきたのか、と感じた。
私が親友という言葉が好きだった理由すら、こういう歴史的背景からそう遠くない理由でこう思う子供が増えることも「読み込み済み」ということだ。
幸運にも私は、欲望に対して意思が強い子供で、齢40過ぎにして「親友」という存在を持てている。親友、は難しい。こちらと相手方との気持ちの分量×質量が同等で、しかも、継続させなければならない。バランスが大事だ。バランス。中庸。好きな言葉。
友情を築く、というのはある意味仏教の考えに似ているのかもしれない。
人間は何事においても、度を超すと不快に感じるように設定されている。
暑すぎても寒すぎてもだめ、喉は乾くけれど、水に溺れるほどの量は要らない。
汚い水では生きていけないのに、真水(精製水)を飲むとお腹を壊すらしいなんて、誰が決めたのだろう。
空腹過ぎても、満腹すぎても苦しい。動き過ぎても、動かな過ぎても疲れる。
友情も、近づきすぎても、遠すぎてもだめ、褒めすぎても叱咤しすぎてもだめ。丁度よい匙加減で同じ時を過ごし、相手もこちらも快適だと思える関係を継続して、初めて「友情」が成立する。
恋愛でも近いことは言えるけれど、恋愛は別れて別の人と出会い、幸せを掴むことは割と可能だ。(と、独身時代になかなか恋愛がうまくいかなかった私が言うのもちょっとどうかと思うけれどそれは置いておいて。)
友情は、替えが利かない。その人と自分との関係性は唯一無二で、他に求めたところで、元の同じそれではない。
恋愛もそうだよ!と言われそうなのだけど、基本的に恋愛は一度期に、一つしかできない。
替えを利かそうとする。しかない、とも言う。(言うかな・・・)時系列的には縦広がり。
友情は横広がり。複数持てる。複数持てるのに、今もあなたを選んでいるなんて、すごくないですか。そう、私は、あなたを親友とすることを自分で選択しているのです。
これって、奇跡的かと。
私には親友が4人いる。親友4人とソウルメイトが、1人。
それぞれ性格が全然違うし、私との関係性も、色や形が違う。10代の頃は「その人の一番じゃないと嫌だ」と強く思ったこともあったけれど、自分にだって甲乙つけられない、誰ひとり欠けてはならない、欠けると今のワタシが存在できない、そういう5人がいる。
そのうち2人、いや、3人は、一年を通して、殆ど会話したり連絡をとったりしない。
けれど、その5人とも、全員が私のことをかけがえのない友人だと思っていることを確信できている。
…なんてシアワセなことなのだろう。
ソウルメイトに至っては、この先死ぬまでもしも会わなかったとしても、それでも大切だと思えるし、きっと向こうもそうだろう。もらった言葉だけで私は強く生きていける。そういう関係性。
こうやって、自分が存在していてもいい、と思ってくれている存在があると、どんどん人はゆるく、気が楽に生きていけるのだと思う。
小学校新一年生に伝えたい。友達100人なんて必要ない。
かけがえのない、代わりの利かないたった一人の友を見つけられることを祈りたい。
突然本人写真を載せてみる。※顔はモザイク処理。
文中の記事で紹介している本はコチラ↓です。興味津々。